釜ヶ崎の歴史

  • あいりん地区は釜ヶ崎より広範囲を指し、東四条、山王町一ー四丁目、今池、曳舟の各町等を含んでいる。釜ヶ崎は一般に東田町、東西入船町、甲岸町、海道町、東萩町の六ヶ所を指していわれているが、釜ヶ崎の名称については、明治三三年四月一日の町名改称で「字水渡・同水渡り・同水渡釜ヶ崎・同釜ヶ崎の反別弐町八反壱畝八歩を区域として水崎町」と改称するとあり、釜ヶ崎の町名は、この時から公には消滅している。しかもこの水崎町は関西線以北であるから当時の南区であり、何故に関西線以南の今宮村区域にこの釜ヶ崎の俗称が残ったか、その理由は明らかでない。

川端直正編、1968『西成区史』西成区市域編入四〇周年記念事業委員会、38頁

  • 山王町1、2、3丁目、東田町、今池町、東入船町、西入船町、海道町、甲岸町、曳船町、東萩町、東四条1、2、3丁目の10町を釜ヶ崎地区とし、この地区に隣接し、しかも同じような条件下にある、浪速区水崎町、馬渕町、霞町2丁目を水崎地区とし、この両地区をあわせて「釜ヶ崎」と総称することとした。

大阪府警察本部防犯部編、1961『釜ヶ崎の実態』大阪府警察本部防犯部、1頁

  • 現在のあいりん地区と、昔の今宮村字釜ヶ崎とは何ら関係がない、というわけである。釜ヶ崎の部落の南端が鉄道線(つまり一直線)とは考えられない。おそらく現在の、萩之茶屋一丁目(旧東・西入船町)にまたがっていたものと考える。その昔「今宮村字釜ヶ崎」といわれた地域は、現在の、浪速区水崎町と西成区萩之茶屋一丁目の区域が、ほぼそうであったと思って間違いないだろう。

天平元一、1978『釜ヶ崎変遷史戦前編』夏の書房、37-38頁

  • 釜ヶ崎という地名は、いつまで歴史的にちゃんとあったかというと、昔は西成郡今宮町大字今宮字釜ヶ崎という地名が1901年まであった。大阪市の拡張というか、市がいろんなところと合併したさいに、大阪市内の中に組みいられます。だからきちんとした名前が編入前まではあったわけです。現在は行政用語で愛隣地区という、でも愛隣地区といったってなにも差別的な名前で、誰も愛隣地区なんて呼ぶ奴はいないです。こういう名前を勝手にどうどうと釜ヶ崎といえばいいのに、東京だったら山谷ときちと付けてるわけです。どことももともとの地名をつけているのだが、釜ヶ崎だけが愛隣地区という行政用語で勝手に呼んでいる。

藤井利明『釜ヶ崎を大いに語る』釜ヶ崎講座第4回

  • 釜ヶ崎を山王町も含め『あいりん地区』と呼称され、釜ヶ崎が拡大解釈されるようになり、山王町が釜ヶ崎の山の手と変な俗称までついてしまった。

竹島昌威知、1994『釜ヶ崎天国―石島秀松伝』三一書房、5頁

  • 最終更新:2012-07-27 05:33:16

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